2010/03/28

◎首をかき切るほどの羞恥心・・・消滅


にしても、最近、あの「西部邁」がお気に入りになった。土曜日の午前11時、たまたま見つけた東京MXテレビのトーク番組「西部邁ゼミナール~戦後タブーをけっとばせ~」を視聴して、はまってしまった。例のぞんざいな口調で森羅万象を滅多切りにして痛快、爽快にして、浅学菲才、浅薄なカメにとっては何とも面白いの一言・・・。MXのHPに西部ゼミのアーカイブが作ってあり、過去の放送分を公開しているので、時々アクセスしている。http://www.mxtv.co.jp/nishibe/
ちょっと笑ったのが、確か、文芸評論家・富岡幸一郎氏がゲストの時。現代人の羞恥心のなさに話が及んだ際、冬季五輪で正装のスラックスを腰骨の下まで下げてはくなど服装の乱れでスノボの国母和宏選手が叱責され日本選手団入村式への参加を自粛した件を取り上げながらフィギュアスケートに話が及び、「女性が丸裸同然の格好で、見ようによっては丸裸で(氷上を)走っている。女性が裸も同然の姿で人前で股を広げたり、ひっくり返ったりしていること自体、昔の羞恥心(からいえば、そんな格好をすることは)、女性は首をかき切るほど恥じ入ったもので・・・、そういったことをやっていながら(JOCやスキー連盟に)国母君にパンツが下がっていたとか、そんなことをいう筋合い、資格があんのかいと・・・冗談を飛ばしたくなるくらい、日本人はおかしくなっている、ね」とお馴染みのニヒルな笑みを浮かべた。
まさに、我が意を得たりだった。女性の奥床しさなど、現代では既に死語に近い。勿論、身近で奥床しさを感じることはない。西部氏には叱られてしまうだろうが、確かにTVでフィギュアスケートの女子は視聴するが、男子は見る気にならない。その女子をそんな視線で見ながら、ひょっとしてロリコンになったかと思ったものだ。

2010/03/23

◎DVD買取135円、あぁ〜恥ずかしき日々ヨ


にしても、135円なんて・・・、あまりのことに溜息をつくしかなかった。ポカポカ陽気になった先日の昼下がり、クローゼットの奥から出てきた手提げ紙袋にいっぱいの中古DVD(25枚)を蒲田駅近くのDVD店に持ち込んで、買取を依頼した時のこと。1枚10円でも250円にはなるなと踏んで自転車に乗ったのだが、結果はそれほど甘くはなかった。もう10年以上前にしまい込んで忘れていたもので、それもカバー写真に釣られて買ったものの役に立たず、まとめて紙袋に詰めていたものだけに、マンションのゴミ集積所に出してもよかったのだが、それは何となく恥ずかしく、憚られて・・・。ぽかぽか陽気を待っていたのだ。
査定の待ち時間は店内の書籍コーナーでアダルト雑誌を手にしていたが、その種類の多いことといったらない。大半はDVDが付録についていて、価格は300円位から上は数千円まで。久々にのぞいたDVD店の品揃えには舌を巻くばかりだ。
査定の結果、10枚についてはモザイクがどうとかで引取不能と告げられ、続けて「古い作品ばかりで・・・」と値段がついたのは15枚で、その合計は135円。1枚10円にも満たぬお粗末さ。何とも情けなく、引取不能の10枚は廃棄を依頼し、135円の硬貨を掌に握り買取書類にボールペンでサインしたものの、何となく納得はいかず、あぁ〜恥ずかしき日々よ、いつまで・・・と慨嘆した。

2010/03/16

◎孤独は極上の幸せ、至福の快感である


にしても、人は何故、孤独を恐れ不安に感じるのか、カメにとって孤独は極上の幸せ、至福の快感であるというのに・・・。昨夜のテレビ「ビートたけしのTVタックル」 で高齢化社会の問題として「孤独死」を取り上げ、千葉の団地ではNPOの会員が1人暮らしの老人宅を巡回しながら生死を確認する活動を紹介していたが、これは余計なお世話、お節介ではないかと感じた。死ぬ時くらいは、1人で心静かに穏やかに死にたい。死んだらお終い。後は野となれ山となれ、だ。
孤独は、人間が社会的動物、社会的存在であるからか、その文脈で語られ、倫理、道徳面からは悪行のようにみられ、おかしなことに寂しいという言葉がついて回ることが多いのだが、果たしてそうか。カメにいわせれば、それらは偏見であって、ちゃんちゃらおかしい。
寒い夜、明かりの点いていない冷え冷えとした暗い部屋に1人帰るのは寂しいとは、よく耳にするのだが、カメはそんなことはない。カメは浮き浮きして、足は軽くなり、誰もいない、気兼ねしなくてもいい、気侭に過ごせる部屋に落ち着ける喜びが沸いてくる。孤独だからこその快感で、共感者は少なくないと思うのだが、この世にはそれを公言することがはばかられる空気がどんよりと漂っているわけだ。ま、それを人の道とでもいうのだろうが、その道を外れた外道のカメには本能の赴くまま、勝手気侭に過ごすのが何より、快楽こそ人生なのだ。それは孤独だからこそで、「孤独は極上の幸せ、至福の快感である」と本外道カメの死言状に加えておく。
Netで探してみたら、仏の小説家・バルザック(1799年 – 1850年)はこんな言い方をしていた。
「孤独はいいものだということを我々は認めざるを得ない。しかし、孤独はいいものだと話し合うことの出来る相手を持つことは一つの喜びである」

2010/03/12

◎孤独というやつ、カメにとっては快感・・・


にしても、 1957年製作のスウェーデン映画『野いちご』を衛星テレビで見て、何となく自らの人生を振り返ってみたくなった。映画は、人生の空しさと孤独を、一人の老教授を通して、現実と回想と悪夢の中に描いたベルイマン監督の傑作。前作「第七の封印」で神の不在を問うたベルイマンは、この作品では人間の愛と憎しみ、生と死といったテーマに鋭く切り込んだとの触れ込みなのだが・・・、どうやら欧米でも輪廻転生は死生観のテーマになっているらしい。それに、老人、死、孤独、勲章、故郷、父母、家族・・・といった言葉がキーワードになっていて、キリスト教も仏教もいずれも根っ子では共通している、と改めて確信した。
映画の中で老教授の息子は「人生に吐き気がする」「好きな時に死ねるよう、身軽でいたい」「望みは死ぬことだけだ」と話し、息子の身重な妻は「この老女(老教授の母親)はまるで屍のよう。でも、生きている。死よりも恐ろしい。そして、息子(老教授)はまるで逆、生きながら死んでいる。夫も孤独で冷たい屍。お腹の子は、
この孤独と死が脈々と続いてしまう」と話し、父母、家族といった身近な人間関係のDNAを解き明かそうとしているようだ。そして、映画の中で老教授は冷淡で自己中心的、無慈悲のため有罪とされ、その罪は孤独と裁定されるのだが・・・。

自分史を振り返ってみて、外道のカメに悔いの残ることはない、なんていうほど真面目に一生懸命生きてきたとも思えない。というか、川の流れに身を任せて何もしていなかったというのが真実で、野いちごの主人公の老教授と重なる部分は多い。もちろん、老教授ほどの知識も、教養もないが、冷淡で自己中心的、無慈悲という情緒面ではピタリと一致する。で、その罪が孤独となり、いま、確かにカメもその罪を受けているようにも見えるのだが、実はその孤独というやつ、カメにとっては快感以外の何ものでもない。外道の外道たる所以でもある。さらに、ねばならないこともなし、最近では、食っちゃ寝・・・の生活リズムが出来たようにも感じている。ウフッ。

2010/03/04

◎のんべんだらりとしていられる幸せ・・・


にしても、今回の確定申告はあまりにもあっけなく終わって、拍子抜けした。昨21年は年金収入だけで、その額たるや、生活保護を受給した方が間違いなく多いに違いないと憶測できるほどだから、申告書への記入はいとも簡単に終わってしまった。源泉徴収額もなければ、必然的に納税額もゼロというわけで、気がかりなのは地方税と固定資産税、国民健康保険料の額といったところ。先の気温が2桁半ばになった昼時、自転車で届けてきたが、受け取った職員はノーチェック、受領印を押した控えを受け取って、何となく物足りなさを感じると同時に、何か身軽になった気がした。
まさに、天下晴れての国家ニートというわけで、初めて国家というか日の丸に対する帰属意識の萌芽を感じた。この国家への依存感というか、もたれかかる心情、安心感というのは、相手が国家だけに、家庭とか会社などと違って、大いに頼りがいがあり、それを意識するのはちょっとした快感だ。セイフティーネットの張り巡らされたところで、のんべんだらりとしていられるというのはこたえられない。といいつつ、この寒さは何とかならないか。何とかしてもらえないものだろうか。ない知恵を絞ってチェンマイに避寒してみたわけだが・・・。