2007/01/13

◇命の値段・・・100万円也は高いか、安いか

にしても、命の値段・・・100万円也は高いのか、安いのか。

銭湯から裸で救急車で運び込まれ、くも膜下出血の手術を受けたカメの場合・・・。余病を併発したわけでもなく、後遺症が発症したわけでもなく、多分、標準価格だったのではないか、と思う。
その価格は手術、入院(25日間)費の合計で約300万円。国民健康保険の適用(3割負担)を受け、退院時に100万余円を支払ったのだが、これが高いのか、安いのか? 何とも難しく、悩ましい。

命の値段・・・、事故の補償の際の逸失利益や生涯賃金などとは違い、直接、命を生で取り扱う価格だ。が、医者にとって値段は関係なく、現代医学の最先端技術を駆使して患者の延命策に奮闘するのが脳外科医だ。

ある日突然・・・の状態で、そんな患者が次から次から運び込まれているのが実状のようだ。特に、高齢者の生き様、死に様・・・は千差万別で、それこそ他人が口出しできるものでもない。そのレベル、温度差は実に人様々、何ともいいようがない。

昨年秋、カメは脊椎反射のみで生きている・・・と拙ブログに投稿した(06/10/7)。某氏のWebサイト「脳年齢チェック」体験で、「脳がかなり腐敗しています。もはや脊椎反射のみで生きているといっても過言ではありません。全てにおいて欲望のままに自由に生きている。」と解説されてしまった。
まさに、的中である。今風に国家ニートと称してみても、その実態は昔ながらの穀潰しだ。なのに、いまの時代、この歳になると、それを社会が容認し、サポートしてくれる。
これが、社会保障制度の充実なのだろう。脳外科病床での短期間の体験から見ても、これからは高齢者が1人生活するために最低でも1人の介護人が必要になるだろうと感じた。

三途の川から戻されてしまったカメなど、まだまだ穀潰しをしていいよとお墨付きを頂いたような気もしている。
こんなことを続けていて、この国は今後何年、立ち行くのか。みんな、わかっていながら、誰もまっとうに見ようとはしないし、発言しようともしない。
生きるべきか、死ぬべきか、その決断は医者個人に出来ないのは当然だが、当の患者本人には可能となるようなマニュアルを制度化しておくことはできるし、どこかでそうした線を引く政治的決断力がいま求められている。