2009/09/18

◎Dバッグ背負ったカメがバンコク上空を遊弋


にしても、「イージーライダー」を皮切りに衛星映画で「俺たちに明日はない」「アリスのレストラン」と立て続けにアメリカン・ニュー・シネマを見て、カメはこれまで何の努力もせずに、感性と直感だけで齢を重ねてしまったと、そんな思いにとらわれた。とにかく、考えない。考えられない。考えることが嫌いだったのだろう。というより、考えてみても、ま、何もわからなかったに違いない。だから、たとえ何かが起こっても、自分の目に見える範囲だけの事象をとらえて、感性と直感で反応、対応していた。それも、生理的な好き嫌いが判断基準になっていることが多かった。
刹那主義の泥縄、付焼刃人生である。一歩踏み込んで、それが何故、どんな事由から、どんな背景があって生じたのかなんて、その時も、その後も考えないし、そもそもそんなことに気がつかない。とりあえず、目の前の事象が通り過ぎていけば、それでいいのだ! ザ・エンドである。だからだろう、それらはカメの記憶にも残らない。
これは、カメの脳の思考回路に不具合有り、とみる。目に見えないこと、事象はいくら説明されても、チンプンカンプンで想像もできないし、全く理解できないのだ。身近なところでは電気、電波、無線、気象といったところか。電話で話ができる不思議は、いまだに不思議なまま受け入れているのだが・・・。天気図も同様だ。特に象徴的なのが「負荷」という言葉で、いまだにカメは日常生活で使えないでいる。
米のニューウェーブの共通テーマは「自由」のようだ。自由とは、規制からの脱却、規制の撤廃を願い、彼らなりにそれを実践する姿が描かれている。でも、それらは普通の市民の目には奇異にしか映らず、まして実現しないし、受け入れられるはずもない。映画では、そうした自由を希求する若者の行動を追いかけるだけで、その先の見通しまでは示唆していない、というか、いずれも、志半ばのアン・ハッピーエンドで終わらせている。
振り返ってみれば、1970年前後、カメは何となくでしかないのだが、無意識に幾つかのタブーをつくっていたと思う。ベトナム戦争、ヒッピー、マリファナ、ベ平連、小田実、何でも見てやろう、学生運動、赤旗・・・等々。ひょっとすると、そうしたことをテーマに自由を標榜するアメリカン・ニュー・シネマもタブー扱いしていたのかもしれない。そして、カメは何にも知らないまま、考えることを放棄して、川の流れに身を委ねたまま、気がついたらバンコクまで流れていて、恥ずかしながら真の「自由」を満喫、その素晴らしさを体感している・・・といったところか。
実は、イージーライダーとDバッグを背負ったカメがオーバーラップした時、カメはバンコクの上空を遊弋しているように感じた。