2006/10/28

◆秋晴れに「アリとキリギリス」を思い出す

にしても、秋晴れの目覚めは清々しい。いつもは弛緩したままのお肉がいささか疼き、脳細胞もいささかながら目覚めてくる。と、何かしなければという気に駆られる。といって、カメには何もない。それは、もう始めからわかっていることだから、そこで改めて何か・・・とは考えない。だら~んと弛緩した心身の状態が何より気に入っていて、タイの陽気が懐かしく蘇ってくる。四季がない気候風土から生まれ、醸成されたタイの生活文化の空気だ。自然のまま、気紛れに暮らす。また、それが可能なマイペンライの気風だ。
今日一日、いまが良ければ、それでいいじゃないか・・・。明日、明後日、一週間、一ヶ月、一年先、一体どうなっているのか、どうしたいのか・・・なんてことは考えない。考えて、どうなるものでもない。何故、そんな先のことを考えるのかが、わからない。
イソップ物語のアリとキリギリスの寓話を思い出す。夏の間、アリたちは冬の間の食料をためるために働き続け、キリギリスは歌を歌って遊び、働かない。やがて冬が来て、キリギリスは食べ物を探すが見つからず、アリたちに頼んで、食べ物を分けてもらおうとするが「夏には歌っていたんだから、冬には踊ったらどうだ?」断られるお話・・・。
確かに、タイでは勤勉とか、忙しいとか、慌てるとか、あくせくするといった概念が存在しない。それが、日本人の目には怠惰と映るのだが、タイではそれが当たり前の姿なのだ。冬がなく、一年中Tシャツ一枚で暮らしていれば、それはそうだ。キリギリスには例えられない。
Webで検索してみると、アリとキリギリスの原典はギリシア語で「蝉と蟻たち」。セミになじみの薄いドイツ語圏で風土に合わせてセミがキリギリスに置き換えられたらしい。日本でも、戦国時代イエズス会の宣教師が持ち込んだ際は「セミ」だったが、明治以降、英語版が訳され「キリギリス」となったそうだ。で、その結末も、日本ではアリはキリギリスに食べ物をあげ「好きなことばかりしていると、後で後悔するよ」と諭すのだが、国によっては、キリギリスは餓死してアリの餌・・・だ。そうかと思えばアリは働き過ぎで過労死したとか、キリギリスはアリに音楽会の切符を売りつけ、そのアルバイト収入で冬を過ごした・・・といった“現代版”もあるとか。
四季のないタイで、この寓話はどう伝えられているのだろう。