2010/09/16

◎村木元局長と鈴木代議士の違いはどこ・・・


にしても、改めて、人生運否天賦というしかない。最高裁判所による鈴木宗男衆院議員の上告棄却決定と議員失職、厚生労働省の村木厚子元局長に対する無罪判決、いずれも、傲慢・検察によるミエミエの「国策捜査」で、それも、村木元局長の判決の日程を見据えての最高裁の決定発表ときては、呆れるほかはない。この順番が逆になれば、聡明な国民の目には「鈴木代議士も無罪なのでは・・・」との疑念を抱かれないようにとの深謀遠慮だったのか・・・。
村木元局長と鈴木代議士の違いはどこにあるのか。 最も重要なのは運だ。村木元局長は運が良かったが、鈴木代議士は運が悪かったのである。 サッカーの勝敗を最後の最後にPK戦で決めるようなものだ。運だけ、「国策捜査」なんて、そんなものだ。


ただ、身に覚えもないことで無理矢理、全人格を否定されてしまった鈴木代議士の無念さは、カメごときの推量の域を超えているだろうが、一方でこんなことが罷り通る世の中の底知れぬ怖さが老い先短いカメにすら覆い被さってくる。警察と検察から、被疑者ではなく参考人聴取されたことがあるカメは、検察官の思考方法はある程度わかる。非常に単純で、犯罪を構成する要因、要素が揃っているかどうか、だけだ。それらを組み合わせてストーリーを展開するシナリオライターという喩えは当っている。だから、何より整合性を重視し、大事にする。事実、カメの場合も被疑者か参考人か、逡巡、検討した結果、参考人になったんだぞ、と後で聞いたが、その理由は噴飯モノ。でも、笑えない。自然体が良かったと、密かに自己分析はしてみた。
村木元局長にとって、大阪地検特捜部による逮捕は青天の霹靂だったろう。ある日、歩道を歩いていて、突然交通事故に遭ったようなものだ。さらに、周辺で集められた証言を元に連日、追及されてはたまったもんじゃない。ただ、特捜部の傲慢は、時として杜撰さも伴う。まさに、それは奢りである。今回は公判で供述調書が証拠採用されず、さぞかし周章狼狽しただろうが、担当した検事は既に全員交替したと聞く。反省もない。市民の安心と安全は何処に行ったのか、である。
実は、もう一つ、ずっと放置されている、手強い、大きな問題がある。事件が発生する度に被疑者に群がるマスコミの存在だ。無冠の帝王とか第4の権力とかを気取っての傲岸不遜振りは半端じゃない。いったん「逮捕」「起訴」と聞けば、あとは猪突猛進、被疑者は極悪非道の大悪人、人権も何もあったもんじゃない。「逮捕」をお墨付きに書きたい放題、「起訴」ではそれみたことか・・・だ。
キャリア公務員として過ごしてきた村木元局長にとっては、経験したこともない奇妙奇天烈、無茶苦茶なマスコミ攻勢、マスコミの狼藉に晒されたに違いない。その一部始終をこの際、明け透けに告発しては如何だろうか。ぜひ、お願いしたい。次に改革の波をかぶらなければならないのはマスコミである。