◎孤独というやつ、カメにとっては快感・・・
にしても、 1957年製作のスウェーデン映画『野いちご』を衛星テレビで見て、何となく自らの人生を振り返ってみたくなった。映画は、人生の空しさと孤独を、一人の老教授を通して、現実と回想と悪夢の中に描いたベルイマン監督の傑作。前作「第七の封印」で神の不在を問うたベルイマンは、この作品では人間の愛と憎しみ、生と死といったテーマに鋭く切り込んだとの触れ込みなのだが・・・、どうやら欧米でも輪廻転生は死生観のテーマになっているらしい。それに、老人、死、孤独、勲章、故郷、父母、家族・・・といった言葉がキーワードになっていて、キリスト教も仏教もいずれも根っ子では共通している、と改めて確信した。
映画の中で老教授の息子は「人生に吐き気がする」「好きな時に死ねるよう、身軽でいたい」「望みは死ぬことだけだ」と話し、息子の身重な妻は「この老女(老教授の母親)はまるで屍のよう。でも、生きている。死よりも恐ろしい。そして、息子(老教授)はまるで逆、生きながら死んでいる。夫も孤独で冷たい屍。お腹の子は、
この孤独と死が脈々と続いてしまう」と話し、父母、家族といった身近な人間関係のDNAを解き明かそうとしているようだ。そして、映画の中で老教授は冷淡で自己中心的、無慈悲のため有罪とされ、その罪は孤独と裁定されるのだが・・・。
自分史を振り返ってみて、外道のカメに悔いの残ることはない、なんていうほど真面目に一生懸命生きてきたとも思えない。というか、川の流れに身を任せて何もしていなかったというのが真実で、野いちごの主人公の老教授と重なる部分は多い。もちろん、老教授ほどの知識も、教養もないが、冷淡で自己中心的、無慈悲という情緒面ではピタリと一致する。で、その罪が孤独となり、いま、確かにカメもその罪を受けているようにも見えるのだが、実はその孤独というやつ、カメにとっては快感以外の何ものでもない。外道の外道たる所以でもある。さらに、ねばならないこともなし、最近では、食っちゃ寝・・・の生活リズムが出来たようにも感じている。ウフッ。
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